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Feb
17
2010

カルーゼル凱旋門とナポレオン

カルーゼル凱旋門は、チュイルリー公園とルーヴル美術館の間にあるピンク色の凱旋門です。
エトワール凱旋門に比べるとずっと小さい門ですが、美しい色と優美なフォルム、クアドリガの彫刻、ルーヴル美術館との取り合わせなど、非常にフォトジェニックな凱旋門と言えるでしょう。
前回のパリ遠征でも写真撮影ポイントとして活躍した場所ですが、雨が降っていたので出来栄えはいまひとつ。
今回はすっきり晴れわたっていますから、きっといい写真が撮れるでしょう。

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ナポレオンが建造した最初の凱旋門

カルーゼル凱旋門は、ナポレオン・ボナパルトが建造した最初の凱旋門です。
1805年のアウステルリッツの戦いで大勝したナポレオンの命を受け、ペルシェとフォンテーヌのデザインで1808年に完成しました。
高さは15m、スタイルは3世紀ローマ皇帝ルキウス・アントニウスの凱旋門にならい、3つのアーチ・8本の柱から構成されています。

小さいって言ってもけっこう大きいんですけどね

この凱旋門がピンク色なのは、柱が薔薇色をしているためで、イル・ド・フランス地方のムードン城から運ばれた大理石が使われています。
とても美しい門ですが、完成当時ナポレオンはこの凱旋門に満足せず、もっと大きい凱旋門を造るよう命じました。
それが現在のエトワール凱旋門になっています。

彫刻群にも注目

門の上には、兵士や女神の彫像が飾られ、表面にはナポレオンが勝利した数々の戦いのレリーフがあります。
アーチの内側にも細かいレリーフがびっしり。

カルーゼル凱旋門のクアトリガ

建設当初は、門の一番上に、ナポレオンがベネツィアから奪った黄金色のクアトリガ(4頭だての馬車)が飾られていたそうです。
しかし、1815年ワーテルローの戦いでナポレオンが敗れた際に、オリジナルは奪い返されてしまい、現在はボシオ作のコピー。
コピーでも、かっこいいですね。

ナポレオンってどんな人?

ところで、皆さんはナポレオンについてどのくらい知っていますか?
世界史を勉強してないサーチライトの知識はこんなものです。
「むかしむかし、フランスにナポレオンという人がいて、いろんな国との戦争に勝って皇帝になりましたが、『我輩の辞書に不可能はない』とか調子に乗っていたら、冬将軍にボコられて島流しにされました。その後、島から脱出してまた皇帝になりましたが、やっぱり島流しにされました。めでたしめでたし。」
ひどい、これはひどい。

ナポレオンってどんな人?

これじゃあんまりなので、ちょっと勉強してみたんですが、これが実に面白い!
せっかくパリに行くなら知っておいた方が断然魅力的ですから、自分で勉強するのは面倒くさいという人は、ぜひ参考にしてみてください。

フランス革命戦争とナポレオンの台頭

1789年の「バスティーユ牢獄襲撃」から始まるフランス革命によって、絶対王政の打破と市民権を獲得したフランス。
しかし、革命の影響がフランス国外にまで広がるのを恐れたヨーロッパ諸国は、対仏大同盟を結んでフランスに干渉し、革命政府がこれに反発すると、「フランス革命戦争」に発展していきました。

若き日のナポレオン

この戦争の中で、天才的な指揮能力を見せ、頭角を現したのがナポレオン・ボナパルトです。
「イタリア戦役」を筆頭に、ヨーロッパ列強を次々と撃破し、革命政府の国際的承認はもちろん、領土的拡大をも果たします。

第一帝政

ナポレオン率いるフランス軍は、陸上ではほとんど無双状態。
しかし、イギリスとインドの連絡を絶つ目的で行われた「エジプト遠征」では、イギリス海軍の反撃に遭い、ナポレオンはエジプトに孤立します。
そんな中、イギリス・ロシア・オーストリアの第2回対仏大同盟が結ばれ、ナポレオン不在のフランス軍は窮地に立たされていました。
母国の危機を知ったナポレオンは、わずかな部下とともにフランスに戻り、政権の安定しない総裁政府を、「ブリュメール18日のクーデター」で打倒すると、自ら統領政府の第一統領となり、強力な行政権を手に入れます(1799年)。

皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式

ナポレオンは、この強力な行政権をもって反撃に転じ、「第2次イタリア戦役」でオーストリア軍を撃破すると、「アミアンの和約」でイギリスとも休戦し、その地位を確たるものにしました。
そして、1804年、国民投票の圧倒的な支持をもって皇帝に即位し、「第一帝政」と呼ばれる軍事独裁体制が始まります。

ナポレオン戦争

皇帝に即位したナポレオンは、ヨーロッパ各国に侵略戦争を仕掛け、ここでもイギリス海軍に苦戦こそしましたが、大陸では連戦連勝を重ね、イギリスとロシアを除くヨーロッパのほぼ全土を征服します。
「アウステルリッツの戦い」は、この頃の戦いです(1805年)。

1810年の勝利

唯一イギリスを攻めあぐねていたナポレオンは、「大陸封鎖令」でイギリスを孤立させ、同時にフランスのヨーロッパ市場独占を画策しました。
しかし、逆にイギリスから物資を受け取れなくなった大陸諸国は困窮し、ロシアが大陸封鎖令に反発。
これを機に、ナポレオンの「ロシア遠征」が始まります(1812年)。
60万の大群を率いて行われたロシア遠征は、約半年でモスクワを攻略しますが、ロシアの焦土戦術による食糧不足と、和平交渉の遅れから、冬の到来とともに撤退を余儀なくされます。
この退却時、ロシア正規軍と農民ゲリラの追撃を受け、さらに本格的な冬の到来による飢えと寒さから死亡者が続出。
結果的にナポレオン軍はほぼ壊滅し、このロシア遠征はナポレオンの大敗に終わりました。

解放戦争と百日天下

ロシア遠征の大敗を見たヨーロッパ諸国は、打倒ナポレオンに集結し、「ライプチヒの戦い」でナポレオン軍を撃破します(1813年)。
この敗戦によって、ナポレオンは退位し、イタリア北西岸の小島・エルバ島に追放されました。
ところが、ナポレオン戦争後の諸問題を処理すべく開催された「ウィーン会議」では、諸国の利害が一致せずに会議は混乱。
また、フランス国内では、革命時に亡命していたルイ18世(ルイ16世の弟)が帰国して王政復古を宣言したものの、国民はこれに不満を持っていました。
こうした状況を見て、ナポレオンはエルバ島を脱出してパリに入城し、国民の熱狂的な支持をもって復位を宣言します(1814年)。
しかし、ナポレオンの復位を、ヨーロッパ諸国が看過するはずもなく、イギリス・プロイセン・オランダの連合軍が、「ワーテルローの戦い」にて、ナポレオン軍に完勝(1815年)。
ナポレオンは再び退位して、南大西洋の孤島・セントヘレナ島に幽閉されました。

アンヴァリッドのナポレオンの柩

1821年、ナポレオン永眠。
ナポレオンの死後、その棺はパリに戻り、アンヴァリッドのドーム教会に安置されています。

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