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Jun
07
2017

会津武家屋敷で愛しき日々をしのぶ

「私はあの大砲を率いて、大手門にまわります!」
東山温泉を後にしたサーチライトとシュクルが向かったのは「会津武家屋敷」。
東山温泉の入口からすぐの場所にあります。
会津藩家老の西郷頼母の屋敷を中心に、茶室や精米所など江戸時代の建物が立ち並ぶ屋外ミュージアム。
敷地面積2400坪という豪壮な武家屋敷はなかなか見る機会がないと思います。
しかも、西郷頼母といえば、幕末の会津藩の重要人物。
当然、展示には会津戦争絡みのものもあります。
戊辰戦争に興味のある人もない人も、会津に来たら絶対立ち寄ってほしいおすすめスポットです。
まるで時代劇に入り込んだような気分が味わえますよ!

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家老屋敷(西郷頼母邸)

西郷家は、会津藩23万石の松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた家柄です。
豪壮な屋敷は、部屋数38、畳の数は328枚!

会津武家屋敷

屋敷や庭は「八重の桜」でもロケ地として使われました。
「八重の桜」のビデオが流れていて、つい見入ってしまう。
いや、何回も見てるんですけどね。笑。

式台玄関

おおっ! お出迎え!
そうなんです。この武家屋敷は所々に人形があって、当時の雰囲気がよりリアルにわかるようになっているんです。

御成の間

藩公や上級武士など、身分の高い方々をお迎えした「御成(おなり)の間」。
人形は容保公接見の場面です。
容保さま~。

厠

トイレ発見!
畳のトイレなんですね。日本人は江戸時代もきれいなトイレを使っていたのね。

厠の下

トイレの下。
なるほど。こういう仕組みで処理していたわけね。合理的。
ここで健康状態のチェックもできたらしいです。ますます合理的。

使者の間

城からの使者が、家老と会った「使者の間」。
鎧武者の隣にある書棚は、螺鈿造り。
古びてるけど、これだけ大きな書棚で螺鈿って超高級品だよね。
さすが家老。

奥二の間と自刃の間

手前の琴があるのは「奥二の間」で、婦女子たちの部屋です。
仏壇がある方は、「自刃の間」。
1868年8月23日、西軍が会津城下に総攻撃を開始、お城からは全員登城の命が下ります。
籠城戦となれば食糧も限りがあります。
戦力にならない女子供は足手まとい、かといって、敵の手に落ちて辱めを受けたくはない。
頼母の母・律子を筆頭に、妻・千重子、妹2人娘5人は覚悟の自決を遂げたのです。
会津戦争の悲痛なエピソードのひとつです。
合掌。

奥一の間

家老の寝室「奥一の間」。
ここでは父の寝室で遊ぶ娘たちを母の千重子が叱っている場面になっています。
このかわいい子供たちが、さっきの部屋で...。泣。

台所

台所にはパンフレットやお土産グッズがあります。
天井の木組みや雪国仕様の梁も見どころ。
ほかにもいっぱいお部屋がありました。

移築された歴史建造物

敷地内には、武家屋敷以外の移築された建物もあります。
江戸時代、上級武士の屋敷内には武具や家財を収納する土蔵がいくつもありました。
また、家来の住む長屋もあり、それらが歴史資料館となっています。

精米所

藩米精米所。
白河藩の精米所を移築したもので、江戸時代の精米の様子がわかります。
水力を利用し、一日に60kgの玄米を16俵精米できたといわれています。

茶室

茶室・嶺南庵麟閣(れいなんあんりんかく)。
鶴ヶ城本丸内にあった、千利休の子・少庵が造った麟閣を再現したものです。

中畑陣屋

旧中畑陣屋。
「陣屋」とは、藩政時代の役所。
天保年間に建てられた陣屋を、ここに移築したものです。
江戸期の書院造の建物がここまで残っている例は珍しいのだそうです。
石風呂や囲炉裏なども見れますよ。

涙を誘う第二資料館

中でも絶対見てほしいのが、片長屋にある第二資料館。
西郷頼母一族の自刃の様子を再現した場面が泣けます。
頼母の妻・千重子は34歳、頼母の妹たちは20代、頼母の娘たち5人は16歳の長女からわずか2歳の末っ子まで。
千重子は、幼い我が子を刺し殺して、自害。
西郷家では、支族・親戚含め、総勢21名が自決しています。

西郷頼母一族の自刃

もう、その時の悲痛な覚悟を想像するだけで、涙がぼろぼろ...。
逆さ屏風、辞世の歌など、武士の妻・子として覚悟がうかがえます。
会津戦争の各ドラマでも、涙なしでは見れない場面のひとつ。
史実では、屋敷内に突入した土佐藩士の中島信行が、死にきれず息も絶え絶えの長女・細布子から、朦朧とする意識の中で「敵か、味方か?」と聞かれ、敵ながら「味方だ」と答えると、安心した細布子が介錯を頼み、中島は涙ながらにこれに応じたということです。

加藤雅也なら納得?

実はこの人形、私たちが小学校の修学旅行で見た時から変わっていなくて、「どうしてこの人だけ西洋マネキンみたいな顔なんだろう?」と、ずっと違和感があったのです。
しかし「八重の桜」では、史実と少し変えて、発見したのは同じ土佐藩士でも板垣退助になっていました。
まあ、名場面ですから、名も知らぬモブキャラが突然出てくるよりも重要キャラの方が場が締まって見栄えがしますからね。
板垣退助を演じたのは、加藤雅也さん。
敵将ながら、がっごよがった~!
加藤雅也くらいの彫りの深いイケメンなら、この人形でも違和感ないかも?

鹿鳴館の華・大山捨松

「鹿鳴館の華」と言われた大山捨松。
マッサン...じゃなくて、会津藩士・山川大蔵の妹で、会津戦争で籠城を経験し、その後、11歳で日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、帰国した後、大山巌(当時は参議陸軍卿・伯爵)の後妻となります。
英・仏・独語ペラペラの捨松は、鹿鳴館の社交場で各国高官相手に大活躍。
アメリカナイズされた先進的な考え方で、日本発のチャリティーやボランティアをやったり、看護婦養成に尽力したり、女子教育に力を入れたりというスーパーウーマンでした。
夫の大山巌と言えば、薩摩藩士で、会津戦争では西軍を率いて会津を攻めた男です。
八重に銃で右足を撃たれた逸話が残ってますね。
「八重の桜」では、しつこくプロポーズする大山と、「会津藩の家老の家の娘を、薩摩の嫁にはやれない!」と断る山川家の対立を、八重と大山巌(=綾瀬はるかと反町隆史)の腕相撲で決めるという、トホホすぎる展開がありましたっけ。
まあ、尚之助さま亡き後の「八重の桜」は、シュクルにとってはただの余生なんで、どうでもいいですけどね...。
実際、大山夫妻は死ぬまでおしどり夫婦として有名だったそうで、お互いにとって良い結婚だったのは間違いないでしょう。

四斤山砲

おおおおっ!w(*゚o゚*)w
こ、これは、四斤山砲!
籠城戦の時、尚之助さまが敵方に撃った大砲!

籠城戦が始まると、八重は死んだ弟・三郎の服を着て、スペンサー銃を持って鶴ヶ城に入城。
そんな八重の姿を見つけた尚之助は、驚くこともなく「八重さん! やはり来ましたね!」と声をかけます。
その時、「四斤砲がまだ一本、城内に残ってました。壊れたところを直すのに手間取りましたが」と言って運ばせたのが、四斤山砲です。
「あれで薩摩の大砲隊をふっ飛ばしてやんべ」という八重に、「私はあの大砲を率いて、大手門にまわります!」という尚之助。
出丸の外に出たら危ないと止める八重に、「しかし、出丸の砲座に据えてもやられるばかりです。...行ってきます!」と大手門に向かう尚之助。
八重は、尚之助を守るため後を追いかけ、出丸から外に出ないよう石垣に砲撃で穴をあけてそこから大砲を撃つことを提案します。
大砲隊を指揮して敵軍に命中させる尚之助と、鉄砲隊を指揮して援護する八重の絶妙なコンビネーション炸裂!
ここにあるのはレプリカですが、尚之助さまつながりに、胸アツ~!
尚之助さま~!・゚・(ノД`)・゚・。

射的あります

射的もやってました。
今度は鉄砲じゃなくて、弓矢。
修学旅行の中学生に混じって、サーチライトが挑戦!
今回は、的中無しでした。残念。

江戸時代にタイムスリップ気分で

こうしてまた涙を新たにしつつ、武家屋敷見学は終了。
ここで紹介した以外でも、会津天満宮や物産館などがあるので、見学所要時間は1時間半から2時間くらいは見た方がいいでしょう。

新島襄と八重

こんな写真用のパネルもありますし。
ちぇっ。ここでも八重&新島襄か。
会津にいたときの夫は、尚之助さまだぞ! 
ぷんぷん。女将を呼べ!ヾ(。`Д´。)ノ彡

会津藩と奥羽越諸藩はなぜ戊辰戦争を戦ったのか
会津藩と奥羽越諸藩はなぜ戊辰戦争を戦ったのか 大越哲仁
おすすめ平均
stars内容はいい。もっと掘り下げてほしい
stars学校で習う近代史では納得感がない人必読
stars薩長同盟はやはりひどい藩だった。
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