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Jun
10
2017

会津藩主の回遊式庭園・御薬園を歩く

「ままならぬこともあるんですよ、世の中には。頑固ですからね、会津は」
武家屋敷を見学した後に向かったのは「会津松平氏庭園・御薬園」。
鶴ヶ城のほど近くにある庭園で、江戸時代は会津藩主の保養所だったところです。
回遊式日本庭園と四季の花々が美しく、国の名勝に指定されています。
以前にも来ているのですが、今回は「八重の桜」をコンプリートした後なので、また感慨もひとしお。
ドラマの中でも、何度かロケで使われています。
「八重の桜」に思いを馳せつつ御薬園を回ってみました。

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御薬園へのアクセス

御薬園は、会津の城下町にあり、鶴ヶ城からは徒歩15分、まちなか周遊バスも停まりますし、駐車場もあるのでマイカーでも行けます。
お城が混雑している時でもあまり人がいないので、のんびり見学できる穴場スポット。

御薬園

入園料は大人320円ですが、鶴ヶ城公園内にある茶室・麟閣と合わせた三施設共通券が700円で購入できるので、おすすめです。

御薬園の成り立ち

御薬園の始まりは、室町時代にさかのぼります。
朝日保方という老人が、この地の薬泉で疫病に苦しむ農民を助け、その後、領主の葦名氏がこの地を霊地であるとして別荘を建てたのがはじまりです。
江戸時代には、会津松平藩藩祖・保科正之が別荘を再建、二代藩主・保科正経が領民を疫病から救うために薬草園を整備し、三代藩主・松平正容が朝鮮人参を植えて民間にも奨励したので、「御薬園」という名前で呼ばれるようになりました。

今でも薬草が栽培されています

今でも園内には約400種の薬草や草木があり、季節ごとにさまざまな花が咲いています。
藤の花が有名なのですが、私たちが行った5月の中旬には残念ながら藤はもうほとんど終わっていました。

芍薬がきれいでした

満開の藤は見れませんでしたが、ちょうど芍薬やつつじが満開。
なるほど、芍薬は漢方でよく使いますもんね。
売店では薬草茶の試飲もできます。

回遊式庭園

薬草園のそばに広がるのは、池泉回遊式庭園。
中央の池の周りには、たくさんの木々に囲まれた遊歩道がぐるっと配されています。

心字の池

池の中央の亀島にあるのは、「楽寿亭」。
藩主や藩の重役たちが、納涼や茶席のための東屋で、時には秘密の話し合いに使ったりもしたようです。

楽寿亭

中の掛け軸には、会津藩士の子弟が学んだ「童子訓」が掲げられています。
「子供は親がいつも居る畳に座ってはいけない」とか「道の真ん中は偉い人が通るから、端っこを歩け」とか「門は、自分の家の門でも中央を通ってはいけない。まして君主の門はなおさらいけない」とか。
この風流な楽寿亭にはあんまり似合わないような気もするけど...。
これが会津らしいってことかな。

御茶屋御殿

池のそばに建っている「御茶屋御殿」。
主に藩主の休息の場として利用されました。
この御茶屋御殿は、鳥羽・伏見の戦いの後、藩主の座を喜徳に譲った容保公の住まいとなっていました。

御茶屋御殿

会津戦争の時には新政府軍の療養所となっていたため焼失を免れ、明治時代には、再び容保公が数年間住んでいたことがありました。
美しい庭園を見ながら、容保公はどんな思いでここでの日々を過ごしていたのか...。

戊辰戦争と会津藩

会津藩は、戊辰戦争において「逆賊」とされ、旧勢力の代表として新政府軍に追討される羽目になりました。
幕末の悲劇の会津藩主 松平容保しかしそれは、「将軍家に忠義を尽くすのが会津の務め」という御家訓を最後まで守り、忠義を貫いた容保公の生きざまの結果であり、その容保公に最後まで忠義を尽くし、命を惜しまず武士の誇りを守ろうとした会津藩士たちの生きざまの結果でした。

「八重の桜」で尚之助がまだ会津に来て間もない頃、尚之助の仕官も軍制改革の願いも聞き届けてもらえず、古い考えにとらわれている家老たちに向かって、八重の兄・覚馬は怒りを抑えきれずに「あなたがたは世界を知らぬ! 井の中の蛙だ!」と叫んでしまいます。
出過ぎた振る舞いに、禁足処分(無期限外出禁止)となった覚馬。
八重は、「私にはわがんねえ。あんつぁまも尚之助さまもなんも間違ってねえのに、なして? なして罰を受けんのかなし」と疑問をぶつけます。
そんな八重に尚之助は言います。
「八重さん、ままならぬこともあるんですよ、世の中には。頑固ですからね、会津は」。
八重の会津藩に対する疑問は、今度はそのまま新政府軍に対する疑問にトレースされます。
「私は何度考えてもわがらねえ。天子さまのため、公方さまのために尽くしてきた会津が、なじょして逆賊と言われねばならねえのか」と。
頑固な会津は、愚直なまでに忠義を貫き、その結果逆賊とされ、君臣共々辛酸をなめることとなりました。
ままならぬ世の中で、それでも正しいと信じた道を突き進んだ容保公の覚悟と苦しみは、いかばかりだったのか...。

秩父宮勢津子妃と重陽閣

御薬園には、「重陽閣」という建物があります。
昭和天皇の弟宮であられる秩父宮雍仁親王の妃・勢津子さまが、ご結婚の報告に帰郷された際に宿泊なさった東山温泉の建物を移築したものです。

重陽閣

勢津子さまは会津松平家の出身で、容保公の孫にあたります。
勢津子さまのご成婚は、会津の人たちにとってとても大きな意味がありました。
長く「逆賊」と言われていた会津藩主の子孫が皇室に嫁ぐのですから。
その時80歳を超えていた八重も歓喜し、京都から東京の松平家にお祝いに駆けつけています。
会津戦争から60年。
ようやく天下晴れて会津の汚名が雪がれた出来事と言っていいでしょう。

会津藩と容保公を想う

今の御薬園は平和そのものですが、かつては戦争に巻き込まれた場所です。
楽寿亭の濡れ縁には、会津戦争の時の刀傷が今でも残っています。

戊辰戦争の刀傷

大きくえぐれた刀傷は、確かにここで斬り合いがあったことを物語っています。
大きな歴史のうねりの中で、自らの義を貫いた松平容保と会津藩。
容保公は養子で会津松平家に入った身ですが、会津の頑固さを体現していた人だったと思います。
そして、そのような君主だったからこそ、家臣たちも最後まで忠義を尽くしたのでしょう。

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