「しっかりしろ。まだ、書くことがある... 八重さん...」
シュクルの会津幕末巡礼記も、いよいよ今回で最終回です。
これまで幕末の会津で生きた尚之助さまの面影を求めて、いろいろなところを巡ってきました。
そこで思ったのは、やっぱり川崎尚之助は、会津にとっては陰の人。
八重と会津のためにその身を捧げ、会津藩士と共に会津戦争を戦い、会津藩のために身を犠牲にしたのに、会津に残る歴史遺産の中には「川崎尚之助」の名はほとんどありませんでした。
でも、今回訪ねるのは、尚之助さまが砲術を教えていた藩校・日新館!
ここならきっと、尚之助さまの面影があるに違いない!
待ってて、尚之助さま!
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日新館へのアクセス
日新館は、会津城下町からは国道49号を北上し、県道33号との交差地点で33号を西側に進んだ会津盆地の高台にあります。
飯盛山からは車で15分、鶴ヶ城からは車で20分くらいです。
会津藩校・日新館は、元々は鶴ヶ城の西側にあり、八重の生家にも近い場所でした。
会津戦争で校舎は焼失してしまい、当時の建物としては、城の西側の天文台跡が残っているだけです。
しかし、図面が残っていたため、1987年に完全復元したのが現在の日新館です。
會津藩校・日新館とは
日新館の歴史は1803年に始まります。
天明の大飢饉や浅間山の噴火による冷害などで、会津藩の財政は逼迫し、世の中も乱れていたころ、五代藩主・松平容頌(かたのぶ)が、家老・田中玄宰(はるなか)を登用し、藩政改革を実施します。
玄宰は、改革の中心に「教育の振興」を掲げ、5年の歳月をかけて鶴ヶ城西側に藩士子弟のための学校を作ります。
それが、日新館です。
以後65年間、会津藩士の教育の場となってきました。
生徒は1000人~1300人ほどの大人数。
白虎隊士たちも日新館で学びました。
進級は家柄や年齢に関係のない完全実力主義で、どんなに名家の息子でも、日新館を卒業できなければ家を継ぐことは出来なかったそうです。
日新館の充実した設備や教育レベルの高さは全国でも屈指で、会津戦争で敗れてもなお、その後活躍した会津人が多かったのも、それだけ厳しい教育を受けてきたからなんですね。
会津藩「什の掟」
会津藩士の子弟は、6歳から9歳までで十人程度で「什(じゅう)」というグループを作っていました。
毎日順番に仲間の家に集まって、年長者の什長が話を申し聞かせ、昨日から今日にかけて背いた者がいなかったかどうかの反省会を行っていたそうです。
それが「什の掟」です。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
最後の「ならぬことはならぬものです」は、「八重の桜」でも、八重の父・権八が大事な場面でよく口にしていました。
松重豊さんが言うと、重みがあって良かったなあ。
日新館に入学した藩士の子弟たちは、「日新館童子訓」という道徳書を学びます。
主君への「忠」や父母への「孝」などを説いたこの書で、人として、武士としての正しい生き方を学びました。
日新館に通えるのは男子だけでしたが、八重は、父・兄・弟を通じて「日新館童子訓」に馴染み、最晩年の講演会で「日新館童子訓」の一節を暗誦したというエピソードが残っています。
会津藩士の高潔で粘り強い精神は、この日新館で培ったものなんですね。
山本覚馬と川崎尚之助
八重の兄・山本覚馬も、もちろん日新館で学んでいます。
覚馬は、会津藩にとっても有能な人物でしたが、彼の本領発揮はむしろ明治になってから。
京都府顧問、京都府議会初代議長などを務め、新島襄の同志社大学設立にも多大な貢献をした人物です。
「八重の桜」では、知的でまっすぐで熱い男・覚馬を西島秀俊さんが演じ、全編を通じて主人公は覚馬といっていいくらいの活躍ぶりでした。
会津のため、日本のため、未来のために尽くした力と精神の土台は、日新館で作られたのでしょう。
覚馬は、武芸・学問に優れ、25歳の時に、西洋式砲術を学ぶために江戸への留学を果たします。
その時、江戸の大木忠益の塾で出会ったのが、出石藩から来ていた川崎尚之助です。
その後、会津に帰った覚馬は、母校・日新館の教授に任命され、後に蘭学所を開設。
川崎尚之助を会津に呼び、尚之助は山本家に住んで蘭学所の教授として会津で働くことになります。
こう考えると、八重とは運命の出会いだったんですね。
尚之助さま~!・゚・(ノД`)・゚・。
山川健次郎と川崎尚之助
日新館は多くの優秀な人材を育てましたが、中でも特別な人が山川健次郎です。
会津藩家老・山川大蔵の弟で、幼いころから秀才の誉れ高く、会津戦争後はアメリカに留学し、名門イエール大学で物理学の学位を取得。
帰国後は日本初の理学博士となり、以後、東大総長、九州大学総長、京大総長などを歴任、貴族院議員でもあり、勲章もたくさんもらっているというなんだかもうすごい人で、「八重の桜」では勝地涼さんが爽やかに演じてました。
会津戦争の時にはまだ少年でしたが、ドラマの中では、銃や火薬に興味を持ち、川崎尚之助を「先生」と呼んで助手のような役割をしていました。
実際、尚之助は日新館で教えていたわけですし、砲術だけでなく洋学や化学の知識も豊富だったので、健次郎の科学的素養は会津で培われたのかもしれません。
健次郎は、会津戦争の時には白虎隊士として籠城戦に加わり、後には会津側から見た「会津戊辰戦史」の監修に携わっています。
「八重の桜」では、尚之助が死の直前まで「会津戦記」を書いているという設定でした。
長引く裁判と貧困の中、肺炎を患った尚之助は、「やり遂げたいことがある」と療養中の病院を抜け出して、一人ぼろ長屋で「会津戦記」を書き続けます。
会津は逆賊などではない、それなのになぜ逆賊とされねばならなかったのか。
京都守護職拝命から会津で何があったのか見てきた尚之助が、会津のために書き記したものです。
咳こみながら、「しっかりしろ。まだ、書くことがある...」と、震える手で文字を書き続け、ついに力尽きて倒れる尚之助。
「八重さん...」。
最後の言葉は愛しい妻の名前でした。
未完の「会津戦記」は覚馬を経て山川大蔵の手に渡り、大蔵はその遺志を継いで「京都守護職始末」を書き、いつか必ず世に出して会津の汚名を雪ぐと固く決意します。
大蔵は死ぬ前にその役目を弟の健次郎に託し、健次郎がその遺志を引き継ぐという設定になっていました。
実際には尚之助が「会津戦記」を書いたという史実はありません。
しかし、ドラマでは、尚之助が死の直前まで力を振り絞って「会津戦記」を書いていたという設定にしてくれたことで、尚之助の晩年は失意に満ちた無為のものではなく、最後まで自分のやるべきことを全うした人生だったと意味づけてくれました。
尚之助さま~!・゚・(ノД`)・゚・。
まずはムービーで会津についておさらいなんですが...
南門をくぐると、受付で観覧料620円を払ってから、映写室で会津についての動画を見ます。
日新館についてだけでなく、白虎隊や八重も登場。
白虎隊は昔からネームバリューがありますし、八重は大河ドラマの主役で、兄の覚馬が日新館の教授だったわけですから、大々的に取り上げられるのは当然ですよね。
でも、ちょっと待って、日新館さん。
この説明、一人足りなくないですか?
八重の夫ですよ?
蘭学所で砲術教授だった人ですよ?
どうして尚之助さまのことが一言も出てこないの?
こんなの絶対おかしいよ!
女将を呼べ!ヾ(。`Д´。)ノ彡
リアルな人形で当時を再現
尚之助さまの名前が出てこないムービーにふつふつと湧き上がる怒りを抑えつつ、日新館の見学に進みます。
ここでは、人形たちが当時の様子を再現。
武家屋敷といい、会津は人形好きなのかしらん。
日新館の初等教育にあたる「素読」。
論語、大学などの四書五経に、孝経、小学を加えた計11冊の中国の古典を勉強します。
中国古典は武士の教養ですから、各家では、入学する前の6歳頃から近所の寺子屋などで素読をさせていたそうです。
お掃除もしてたんですね。
今の学校と変わりませんね。
少年の人形には、白虎隊士の名前がついています。
天球儀で天文学の勉強。
日新館には全国でも珍しい天文台があり、教育レベルが高かったことがわかります。
腕相撲をしている白虎隊士たち。
その横ではお弁当を食べています。
奥では陣方(軍隊の配置)の図上演習中。
お昼休みの風景みたいですね。
ここではお弁当を食べていますが、なんと、日新館では日本初の給食制度があったのです。
一汁一菜の質素なものだったそうですが、それにしても進んでる。
大学(講釈所)。
今は展示室になっていて、日新館に関する本の紹介や、歴代藩主の紹介などがあります。
日新館はただの展示施設ではなく現在も使われているので、この部屋も講和などが行われているようです。
大学に続くのは、大成殿。
孔子と弟子たちの像、孔子を祭る儀式の祭具があります。
中国風にきらびやかな装飾が、中国風。
その先に、會津藩校資料館がありますが、残念ながら撮影禁止。
皇太子さまをはじめ、皇族の方がお越しになった時のお写真などが展示してありました。
資料館を出ると、水連水馬池があります。
鎧兜を身につけたまま泳ぐ練習をしていたとか。
江戸時代の藩校にまさかプールまであるなんて、本当に驚き!
会津アヒル隊が泳ぎ上手なのも納得。
水連場を持っていた藩校は、日新館と長州の明倫館だけだそうです。
むむ、奇しくも因縁の会津と長州。
いっそ、水泳で決着をつければよかったのに...って、そういう問題じゃないんですけどね。
水連場の周りには、弓道場や木馬場、武道場など。
武士の子弟ですから、当然武芸の鍛錬にも力を入れていました。
日新館では、今でも弓道の大会が開かれたりしています。
天文台があった藩校も珍しく、日新館の他には水戸藩の弘道館、薩摩藩の造士館だけ。
むむ、ここでも因縁の薩摩。
幕末で活躍する藩は、やはり教育レベルが高かったということでしょうか。
天文台の隣にあるのが、砲術場。
キタ━( ゚∀゚ )っ ━( ゚∀゚ )っ━( ゚∀゚ )っ ━!!!!
砲術場、キターーー!!!
ここの砲術場の写真は、あさくらゆうさんの「川崎尚之助と八重」にも載っていて、「尚之助はここで砲術の演習を行った」って書いてありました♪
説明を見ると、「小銃・大砲の訓練や、戦闘の時に使われる狼煙の訓練をしていました。幕末になると洋式銃の訓練も取り入れられました」と書いてあります。
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)うんうん、尚之助さまが教えてたんだもんね♪
...あれ?
説明、これだけ?
あと、何もないの?
......。
......。
......。
いやいやいやいや、ちょっと待って、日新館さん。
この説明、足りなくないですか?
八重の夫ですよ?
この砲術場で、砲術教えてた人ですよ?
どうして尚之助さまのことが一言も出てこないの?
おかしいでしょ? おかしいよね?
こんなの絶対おかしいよ!!! ヾ(。`Д´。)ノ彡
女将を呼べ!!!ヾ(。`Д´。)ノ彡
うわーん、尚之助さま~!・゚・(´□`*)・゚・。
シュクル、怒りの決意
これでシュクルの会津幕末巡礼の旅は終わるわけですが、当初の目的「尚之助さまの面影を求めて心を癒す」が全然かなえられていない!
ていうか、あまりの尚之助さま冷遇に、癒されるどころか怒ってます!
鶴ヶ城ではマッサン...じゃなくて山川大蔵ばっかりだし、日新館なんて八重の説明の所で「川崎尚之助と結婚、戊辰戦争の最中離縁」これだけだよ?
日新館HPの八重コーナーには尚之助さまの名前さえ無いんだよ?
ひどいよ、会津!ヾ(。`Д´。)ノ彡
日新館でようやく出会った尚之助さまは、売店の「八重の桜」ポスター。
うわーん、尚之助さま~!・゚・(´□`*)・゚・。
傷ついたシュクルの心を癒すには、もう、尚之助さまの生まれた出石に行くしかない!
それでも出石なら...出石ならきっとなんとかしてくれる...!!
決めた! 私、出石に行きます!
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